大判例

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大津地方裁判所 平成4年(ワ)42号 判決 1995年11月20日

原告

甲野春子

甲野一郎

甲野二郎

甲野三郎

右四名訴訟代理人弁護士

小山田貫爾

門間秀夫

被告

日本赤十字社

右代表者社長

山本正淑

被告

乙山秋夫

右両名訴訟代理人弁護士

野玉三郎

主文

一  被告らは、各自、原告甲野春子に対し、金一九九九万四〇八〇円、同甲野一郎、同甲野二郎、同甲野三郎に対し、それぞれ金七八八万四六八六円及び右金員に対する平成二年六月二九日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを二分し、その一を被告らの負担とし、その余を原告らの負担とする。

四  本判決は、原告ら勝訴判決部分に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求の趣旨

一  被告らは、各自、原告甲野春子に対し、金四四〇〇万円、同甲野一郎、同甲野二郎、同甲野三郎に対し、それぞれ金一六四九万円及び右金員に対する平成二年六月二九日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

三  仮執行宣言

第二  事案の概要

本件は、被告日本赤十字社が経営する病院において、被告乙山秋夫を執刀医として心臓バイパス手術を受けた訴外甲野太郎(以下「亡太郎」という。)が、右手術の際の過失によって死亡したとして、亡太郎の遺族である原告らが、被告日本赤十字社に対して診療契約上の債務不履行及び不法行為の使用者責任に基づき、被告乙山秋夫に対しては不法行為に基づき、損害賠償を請求した事案である。

一  争いのない事実及び証拠上容易に認められる事実

1  当事者

(一) 被告日本赤十字社は、大津赤十字病院(以下、「被告病院」という。)を経営し、平成二年一月及び二月当時、被告乙山秋夫(以下、「被告乙山医師」という。)を雇用していたものである。

(二) 亡太郎は、昭和四年一〇月一三日に生まれ、平成二年六月二九日に死亡した男子であり(乙一)、原告甲野春子(以下、「原告春子」という。)は亡太郎の妻、原告甲野一郎(以下、「原告一郎」という。)、同甲野二郎(以下、「原告二郎」という。)、同甲野三郎(以下、「原告三郎」という。)は亡太郎の子である。

2  亡太郎の死亡に至る経緯

(一) 亡太郎は、平成二年五月一日、胸痛等の症状を訴え、被告病院において急性心筋梗塞との診断を受け、翌二日、被告病院に入院した。

(二) 亡太郎は、入院後、心臓カテーテル検査等の諸検査を受けた。右検査の結果、冠状動脈に病変があり、心臓冠動脈バイパス術を受けることが適当との診断を受けた。

(三) 亡太郎は、平成二年六月二七日から翌二八日にかけて、被告乙山医師の執刀によって、心臓冠動脈バイパス術(以下、「本件手術」という。)を受けた。その経緯は、左記のとおりである(乙四)。

(1) 六月二七日 午前一〇時一二分麻酔開始

同 一一時二四分 手術開始

午後 二時〇八分 大動脈遮断

同 七時〇五分 大動脈遮断解除

(二) 同月二八日 午前 三時四五分手術終了

(四) 亡太郎は、本件手術終了後、心停止を繰り返し、手術近接期心筋梗塞による急性心不全により、同月二九日午前七時二六分に死亡した。

二  争点

1  亡太郎の死亡原因

(原告らの主張)

亡太郎が手術近接期心筋梗塞による急性心不全によって死亡した第一の原因は、大動脈遮断時間が長時間化したために心機能の回復が困難となったことにある。

次に、冠動脈前下行枝の吻合部に狭窄を生じさせて、血流量を減少させたことも、心機能の回復を困難ならしめ、手術近接期心筋梗塞による急性心不全を引き起こす原因になったと考えられる。

(被告らの主張)

大動脈遮断及び心筋保護に問題がなく、バイパス箇所に血流が十分に流れていても、人工心肺を止めた後に冠動脈の中枢にスパズム(攣縮)が起こり一時的に冠動脈の血流がなくなってしまうことがあり、そのために急性心筋梗塞を起こし死亡の結果が生じることがある。

本件においても、亡太郎には、本件手術終了後に心房細動・心室性期外収縮などの不整脈が頻発したもので、亡太郎の死亡の主な原因としては、冠動脈のスパズムの関与による新たな心筋梗塞の発生が考えられる。

2  被告乙山医師らの過失

(一) 本件手術の執刀医決定における過失

(原告らの主張)

被告乙山医師は、執刀医として心臓冠動脈バイパス術を行った経験は本件手術までに一例もなかったのであって、四枝バイパスの設置という点で冠動脈バイパス術の中でも高度の技術を要する手術であり、かつ、冠動脈は脆弱になっていることが事前に予測されて、吻合には相当高度の技術を要すると考えられる本件手術における執刀医として不適格であった。被告乙山医師には、被告病院の心臓外科部長として、安全な時間内に本件手術を完了できるだけの実績と技量を有する医師を執刀医として決定すべき義務があったにもかかわらず、自己を執刀医に選んだ点で右義務に違反する過失がある。

(被告らの主張)

被告乙山医師は、心臓血管外科の専門医として数多くの冠動脈バイパス術の前立ち、助手として、研修、経験を積んでいる上、約五〇例の心臓外科手術も執刀しており、心臓外科手術については十分な技術と経験があった。冠動脈バイパス術は、他の心臓外科手術と比較して特段に難しい手術とはいえず、被告乙山医師の技術、経験は、本件手術の執刀医となるに十分なものであった。

(二) 手術計画の立案・決定における過失

(原告らの主張)

冠動脈バイパス手術を行うにあたっては、大動脈を遮断して心臓への血液の流入を停止し、血液は人工心肺によって体外循環を行うところ、大動脈遮断時間が長くなるほど心機能の回復は困難となり、心停止の危険性が高くなることから、右手術にあたっては、手術時間ができるだけ短くなるように手術計画を立てるべき義務がある。

ところが、被告乙山医師は、右義務に違反し、冠動脈の四箇所にバイパスを吻合するという無理な手術計画を立て、それを実行したために、本件手術における大動脈遮断時間が二九八分という長時間に及び、そのために手術後、亡太郎は、人工心肺から離脱できず、心機能が回復しないまま、結局、手術近接期心筋梗塞による急性心不全によって死亡するに至ったものである。

また、被告乙山医師は、手術時間が予定より延長することが判明した場合に安全な時間内に手術が終了できるよう計画変更が可能なように手術計画を立てる義務があり、かかる義務からすれば、本件手術においては、生命の維持にとって最も重要な左冠動脈前下行枝から優先的にバイパスを吻合する計画を立てるべきであった。しかし、同医師において、右義務に違反し、右冠動脈、左冠動脈回旋枝、左冠動脈前下行枝、左冠動脈第一対角枝の順序でバイパスの吻合を行う計画を立て、この計画に従って手術を施行した過失により、左冠動脈前下行枝の吻合がうまくいかないことが判明した後、大動脈遮断時間が大幅に延長しているにもかかわらず、第一対角枝の吻合まで行わざるを得なくなり、結局、大動脈遮断時間が長時間に及んで亡太郎の死亡を招いた。

さらに、被告乙山医師は、執刀医として心臓冠動脈バイパス術を行った経験が本件手術までに一例もない上、被告病院への赴任後一か月しか経っておらずチームワークも不十分な中で本件手術を行うのであるから、本件手術前の検討会においては、指導医である丙川冬夫医師(以下「丙川医師」という。)の参加も要請した上で、手術の内容、作業の分担等を十分に相談・検討しておくべき義務があったにもかかわらず、これを怠った過失により、結果として、右のような不適切な内容の手術計画を立案・決定するに至ったものである。

(被告らの主張)

重症虚血心筋の症例に対する大動脈遮断の影響及び何時間の大動脈遮断に耐え得るかについては未だ十分に解明されておらず、冠動脈バイパス術において、何枝のバイパス術を施行するか、どのような順序で血管を吻合するかは、患者の症状、用いる心筋保護法等を考慮し、執刀医が自由に選択すべきものである。

本件においては、亡太郎に対する心臓カテーテル検査等の諸検査の結果に照らせば、亡太郎が手術後心臓疾患の憂いのない余生を享受するためには、本件手術当時の医療水準から見て、冠動脈の四箇所にバイパスを吻合すること(以下、「四枝バイパス」という。)が、手術内容として最も適切であった。四番目にバイパスが吻合された左冠動脈第一対角枝については、細く発育の悪い場合にはバイパス適応がないとされることもあるが、亡太郎の場合には、左冠動脈前下行枝の本流とほぼ同じ太さと、広範囲な心筋への分布が認められていたので、この血管も含めた四本の冠動脈にバイパス術を施行した本件手術内容は適切であった。

また、左冠動脈前下行枝は、一般的には、冠動脈の中で最も重要な血管であるが、亡太郎の場合には、左冠動脈前下行枝の領域に心筋梗塞の既往歴があるため、梗塞部位の周辺部にある壊死に陥っていない部分に対してのみ左冠動脈前下行枝へのバイパス術は有効であって、前下行枝へのバイパス術の効果は一般的な場合ほど大きくなかった。したがって、左冠動脈前下行枝より先に右冠動脈の吻合を行ったことは合理的であり、このような吻合順序で本件手術を計画、実施したことにつき、被告乙山医師に過失はない。

また、被告乙山医師は、本件手術の執刀医となるに十分な技術、経験を有しており、本件手術計画も適切なものであったから、手術前の検討会に指導医である丙川医師の参加を要請して、手術の内容、作業の分担等を相談しなかったことは、過失とはいえない。

(三) 大動脈遮断時間の安全限界を越えて大動脈遮断時間を延長させた過失

(原告らの主張)

被告乙山医師には、大動脈遮断時間が長時間に及べば、心機能が回復しなくなり、死亡に至る危険性が高くなることから、本件手術の大動脈遮断時間が安全時間内に納まるように注意を払い、大動脈遮断時間が安全時間内に納まらないことが判明した場合には、四枝バイパスの手術計画を三枝バイパスに変更するなどの措置を採るべき義務があった。それにもかかわらず、これを怠り、大動脈遮断の時間の経過を確認することなく漫然と四枝バイパスの手術を継続した過失により、本件手術における大動脈遮断時間が安全限界を越える二九八分という長時間に及び、そのために手術後、亡太郎は、人工心肺から離脱できず、心機能が回復しないまま、手術近接期心筋梗塞による急性心不全によって死亡するに至ったものである。

(被告らの主張)

亡太郎の場合、冠動脈の硬化が著しくかつ血管壁が脆弱であったため、通常の場合より、吻合及び吻合部の止血が難しく、大動脈遮断時間が長時間に及んだのもやむを得なかった。

また、大動脈遮断時間として許容される時間は、はっきりと決まっているものではなく、施行する心筋保護法によってはかなりの長時間の大動脈遮断でも安全であるところ、本件手術においては、最長四八五分の大動脈遮断時間を要する心臓手術に成功している小倉記念病院(被告乙山医師の前任地)で使用されている心筋保護液を用いていた上、亡太郎の心機能も良かったのであって、本件手術において、二九八分という大動脈遮断時間は特に危険なものとはいえなかった。本件手術において、被告乙山医師は、左冠動脈第一対角枝にバイパス術を施行せずに放置するよりも、大動脈遮断時間を延長しても、同血管にバイパスを吻合した方が、より救命できる可能性が高いと判断したものであり、このような判断は、本件手術当時の執刀医としての判断としては相当なものであった。

(四) 前下行枝の吻合に際し、血管に狭窄を生じさせた過失

(原告らの主張)

被告乙山医師は、本件手術において、左冠動脈前下行枝にバイパスを吻合するに際し、吻合部に狭窄を生じさせないように注意を払って縫合を行うべき義務があるのにこれを怠り、縫合の手技を誤った過失により、右血管の吻合部に狭窄を生じさせ、そのために、冠動脈の血流が手術前よりも悪くなり、これが原因の一つとなって、亡太郎は手術近接期心筋梗塞による急性心不全を引き起こして死亡するに至ったものである。

(被告らの主張)

左冠動脈前下行枝の吻合箇所に、血管狭窄は生じていない。同血管の吻合完了後に、静脈グラフトを通じて心筋保護液を注入し、吻合部位に狭窄や漏れがないかを確認したが、心筋保護液の注入圧、注入量に照らして、閉塞や致命的な狭窄が生じているとは認められなかった。

(五) 丙川医師が前下行枝の吻合をやり直すべきであったのに、これを怠った過失

(原告らの主張)

左冠動脈前下行枝の吻合がうまくいかず、血管の吻合部に狭窄を生じたと判断された段階で、本件手術に指導医として立ち会っていた丙川医師は、自ら左冠動脈前下行枝の吻合をやり直すべきであったのに、それをせず、左冠動脈対角枝の吻合を被告乙山医師に指示した点で、丙川医師の過失がある。

(被告らの主張)

左冠動脈前下行枝の吻合箇所に血管狭窄は生じておらず、吻合をやり直す必要はなかった。

3  被告日本赤十字社の責任

(一) 被告乙山医師及び丙川医師の使用者責任

(原告らの主張)

被告日本赤十字社は、前記不法行為をした被告乙山医師及び丙川医師の使用者であって、前記不法行為は、被告日本赤十字社の設置する被告病院の業務に関して行われたものであるから、民法七一五条によって、原告らに対し、前記不法行為によって生じた損害を賠償すべき責任を負う。

(二) 診療契約上の義務違反

(原告らの主張)

亡太郎は、平成二年五月一日、被告日本赤十字社との間で、亡太郎の症状を正しく診断し、これに対する適切な治療行為を行う旨の診療契約を締結したものであるが、被告日本赤十字社の履行補助者である被告乙山医師及び丙川医師は、前記のとおり、本件手術をする上で医師としての業務上の注意義務を怠り、亡太郎を死亡させたものであるから、被告日本赤十字社は、原告らに対し、債務不履行に基づき、それによって生じた損害について賠償すべき責任を負う。

4  原告らに生じた損害の額

(原告らの主張)

(一) 慰謝料合計 四〇〇〇万円

亡太郎について 二〇〇〇万円

原告らについて 各五〇〇万円

(二) 逸失利益 四〇〇〇万円

(1) 労働能力喪失による逸失利益

二〇八五万円

亡太郎は、死亡当時満六〇歳八か月の男子であり、昭和六三年簡易生命表による満六〇歳の男子の平均余命の19.78年のうちその約二分の一の期間、すなわち少なくとも満七〇歳まで稼働しえたものとし、平成二年賃金センサス第一巻第一表の産業計・企業規模計・学歴計の六〇歳ないし六四歳の男子の平均賃金年額三七五万〇四〇〇円を基礎に、右稼働期間を通じて控除すべき生活費を三割として、中間利息の控除につきホフマン方式を用いると、労働収入喪失の逸失利益は二〇八五万円と算定される。

(2) 厚生年金受給権喪失の逸失利益

一九一五万円

亡太郎死亡当時、亡太郎は、月額二一万八二二五円、原告春子は、月額一〇万五三二五円の老齢厚生年金の支給を受けていたところ、亡太郎の死亡によって、原告春子は、亡太郎の遺族年金月額一四万九六五八円の支給を受けることになったものの、併給の調整により自らに対する老齢厚生年金の支給を受けることができなくなった。

亡太郎が生存していたら受給しえたはずの亡太郎及び原告春子の老齢厚生年金の受給額から、亡太郎の死亡により原告春子が受給しうることになった遺族年金の受給額を控除した差額が、亡太郎死亡による逸失利益になる。

亡太郎は、生存していたら、平均余命に照らして、少なくとも一九年間は老齢厚生年金を受給しえたのであるから、老齢厚生年金の受給期間を一九年とし、生活費控除を三割とし、ホフマン方式により中間利息を控除すると、厚生年金受給権喪失の逸失利益は一九一五万円と算定される。

(三) 葬儀費用 五〇〇万円

(四) 弁護士費用 八五〇万円

(被告らの主張)

亡太郎のように冠動脈の三枝に高度の狭窄性病変がある患者の、冠動脈バイパス術後の生存率は、統計上、手術四年後で五〇パーセントであるといわれている。亡太郎のような重症の心臓疾患を有する患者については、一般人と同様の平均余命を有することを前提に逸失利益を算定すべきではない。

また、亡太郎は、本件手術当時、仕事に就かず、老齢厚生年金によって生活していた上、重症の心臓疾患を有する患者でもあったのであるから、手術後に、再び勤務し給与を得る可能性はなかった。したがって、賃金センサスの対応年齢平均賃金を基礎として逸失利益を算出するのは相当でない。

平均賃金を基礎として逸失利益を計算するとしても、六四歳までの平均賃金と六五歳からの平均賃金を区別して、算定すべきである。

原告春子が、併給の調整により老齢厚生年金の支給を受けることができなくなり、遺族年金のみを受給できるようになったのは、厚生年金保険法所定の理由によるものであり、原告春子の年金受給額の差額をもって、亡太郎死亡による逸失利益ということはできない。

また、厚生年金によって生活をしていた亡太郎について、賃金センサスの平均賃金に基づく逸失利益を請求しながら、同時に厚生年金受給権喪失による逸失利益の請求をすることは、逸失利益を二重に請求をすることになり失当である。

第三  争点に対する判断

一  前記第二項一の事実並びに甲一の1ないし3、三の1、一〇の1、2、乙一ないし四、一〇、証人原田俊郎、同丙川冬夫、同北村信夫の各証言及び被告乙山秋夫の本人尋問の結果ならびに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

1  本件手術前の経緯

(一) 亡太郎は、平成元年一〇月に勤めていた会社を定年退職しており、死亡当時無職であった。

(二) 亡太郎は、平成二年五月一日に、胸部圧迫感を自覚し、被告病院で緊急受診し、ニトログリセリンを処方されて一旦帰宅した。翌二日、亡太郎は、胸部圧迫感が持続し、胸やけがあったことから、堅田病院で受診後、被告病院循環器科の富岡医師を紹介されて、同科を受診した。胸部不快感(胸やけ)持続、心電図において洞性徐脈(心拍数四五)等が認められ、左前下行枝領域の虚血が示唆された。また、心エコー検査の結果、前壁、中隔心筋梗塞と診断され冠疾患集中治療室に収容し保存的に治療された。同月九日冠疾患集中治療室を退室し循環器科病棟に移った。

(三) 同年六月一日に、亡太郎に心臓カテーテル検査が実施され、以下のような所見が得られた。

(1) 右心系、左心系ともに圧は正常

(2) 心拍出量及び心係数は正常

(3) 左室造影(LVG) 心尖部の壁運動軽度低下

(4) 左室駆出率 正常

(5) 冠動脈造影(CAG)

右冠動脈(RCA)

全汎に拡大している。

中枢部と末梢部に七五パーセントの狭窄あり。

右室枝に七五パーセントの狭窄あり。

左冠動脈(LCA)

主幹部に二五パーセントの狭窄あり。

前下行枝LAD中枢部に中等度の描出遅延を伴う九九パーセントの狭窄あり。

前下行枝LAD末梢部に九〇パーセント及び五〇パーセントの狭窄あり。

第一対角枝D1に七五パーセントの狭窄あり。

回旋枝(CX)に九〇パーセントの狭窄あり。

右の心臓カテーテル検査の結果から、亡太郎は、以下のように診断された。

(1) 陳旧性心筋梗塞(前壁、中隔梗塞)

(2) 三枝病変

(3) 冠動脈バイパス術の手術適応あり。

(四) 同年六月六日、富岡医師は、亡太郎と妻である原告春子及び亡太郎の二人の子に対し、シネフィルムで病状を説明し、冠動脈バイパス術の適応があることを話した。

(五) 六月七日、富岡医師は、被告病院心臓血管外科外来に亡太郎を紹介し、冠動脈バイパス術を依頼した。

心臓血管外科部長の被告乙山医師は、亡太郎と相談の結果、六月二〇日に左記のとおりの内容の冠動脈バイパス術を実施することを予定した。

(1) 上行大動脈から右冠動脈へのバイパス

(2) 左内胸動脈から回旋枝へのバイパス

(3) 上行大動脈から第一対角枝、さらに前下行枝LAD中央部をつなぐ順次バイパス

(4) グラフトには大伏在静脈及び内胸動脈を使用する。

(六) 六月一三日、亡太郎は、循環器科から心臓血管外科に転科するとともに病室を転室した。

(七) 六月一四日、PSP排出検査(腎機能検査)、心電図検査、胸部X線撮影を行った。

(八) 六月一九日午後六時ころ、被告乙山医師は、亡太郎及び原告春子、同二郎、同三郎に対し、循環器科に入院中の他の患者が緊急手術を要する状態であるため、亡太郎の手術を六月二七日に延期させて欲しいと要請し、右四名からその承諾を得た。更に、被告乙山医師は、亡太郎らに、亡太郎の病状、冠動脈バイパス術の必要性、方法、合併症(出血、術中術後の梗塞、感染等、術後グラフト閉塞等)について説明し、亡太郎及び原告春子は、本件手術を受けることを承諾した。

2  本件手術及び亡太郎死亡に至るまでの経緯

(一) 六月二七日から翌二八日にかけて、亡太郎に対して、左記のとおり、冠動脈バイパス術が実施された。

(1) 方法

人工心肺使用下に、seg・3バイパスには大伏在静脈を、seg・13バイパスには左大内胸動脈を、seg・8、9バイパスには大伏在静脈をそれぞれ使用して血行再建を行う。左心補助目的で、大動脈バルーンポンピング(IABP)及び遠心ポンプ(バイオポンプ、LVAD)を使用する。

(2) 手術者 被告乙山医師

(3) 第一手術助手 粟津医師

(4) 第二手術助手 原田俊郎医師

(5) 手術指導 丙川冬夫医師(京都大学医学部心臓血管外科勤務)

(6) 麻酔担当 榎医師、辻村医師

(7) 人工心肺係 西村、小野、中出、十川

(二) 本件手術の経過

六月二七日

九時一〇分 入室 モニター装着

一〇時一二分 麻酔導入

一一時二四分 執刀、胸部正中・左下腿皮膚切開

一一時三〇分 胸骨正中切開後心膜切開

血清様の心嚢液が中程度貯留し、左室前壁に梗塞あり。

冠動脈広汎に粥状動脈硬化性変化も認められる。

一二時〇〇分 開胸 回旋枝へのグラフトとして左内胸動脈を剥離

同時に右冠動脈と左冠動脈前下行枝及び対角枝へのグラフトとして左下肢から大伏在静脈を採取

一二時一九分 全身にヘパリン(二三ミリリットル)を投与後送脱血管挿入等のカニユレーションを開始

一二時四七分 上行動脈よりサーンズ八ミリメートルサイズの送血管挿入

一二時五五分 右心耳より右房内に二段式の脱血管挿入

一三時一五分 右上肺静脈より左房経由、左心室内にベントカテーテル挿入

一三時二〇分 体外循環(人工心肺)を開始し、徐々に全身体温を冷却する。術中体温は二〇〜二一度(直腸温)に維持した。

一四時〇八分 上行大動脈を遮断した後、大動脈基部から穿刺針によって心停止液(ヤング氏液)を注入すると同時に、アイススラッシュを用いて氷水による心筋局所冷却を併用して心停止を得た。引き続いて心筋保護液(晶質液、GIK液)を注入した。

一四時二〇分 冠動脈バイパス術開始

各冠動脈末梢側より吻合開始

冠動脈は縦切開約八ミリメートル、糸は七―〇プロレーン糸を用いて連続縫合で吻合

一四時三〇分ころ 右冠動脈末梢を大伏在静脈グラフトで吻合

右冠動脈は著しく肥厚していたが、外径1.5ミリメートルのプローベが挿入できたので内膜剥離を行わず大伏在静脈を吻合したものの、冠動脈が硬くて吻合に時間を費やした。

吻合後、冷却ヘパリン加生理食塩水をグラフトから注入し、吻合部狭窄及び出血の有無を確認した。

一五時〇〇分ころ 回旋枝を左内胸動脈で吻合

一六時〇〇分ころ 左冠動脈前下行枝末梢を大伏在静脈グラフトで吻合

一七時〇〇分ころ 左冠動脈第一対角枝を大伏在静脈グラフトで吻合(左冠動脈前下行枝末梢を経由する順次バイパス)

大伏在静脈中枢から心筋保護液を注入したところ、特に抵抗認めずスムーズに入った。

一八時〇〇分ころ 体温を二一度(直腸温)から徐々に上昇させた。

一八時二〇分ころ 体温が二五〜二六度(直腸温)まで上昇し、この後大動脈遮断解除時まで体温は右温度で維持された。

一八時三〇分ころ 回旋枝吻合部から出血があり、三針追加縫合した。

一九時〇五分 大動脈遮断解除。体温を約二六度(直腸温)から徐々に上昇させる。

一九時〇八分 自律的な拍動の再開がなかったため、カウンターショックで心拍動を再開させたところ、ST上昇が認められていたが徐々に低下し、洞性調律も回復した。

大動脈基部の部分遮断下に大動脈と大伏在静脈グラフトを吻合

大動脈穿孔器(パンチャー)にて吻合口作成後、6―0プロレーン糸連続縫合によって二本の大伏在静脈をそれぞれ吻合した。

一九時一六分 上行大動脈に、右冠動脈につながった大伏在静脈グラフトを吻合

一九時三八分 上行大動脈に、前下行枝につながった大伏在静脈グラフトを吻合

特に出血なく、グラフトの緊張、拍動良好

二〇時〇〇分 ペースメーカーワイヤーを右心耳、右室壁、胸壁に装着

二〇時一〇分 左胸腔内に三一Frドレーンチューブを挿入固定。輸血開始

二〇時一五分 吻合部出血点止血

二〇時三〇分 左下腿切開部縫合

二一時〇〇分ころ 心房細動が認められ、心拍を正常に戻すため、カウンターショックを七回施行した。

二一時三七分 人工心肺運転停止

昇圧剤投与にもかかわらず心収縮力弱く血圧維持が困難となり、人工心肺による補助循環を再開する。

二二時二五分 左鼠蹊部を切開し大動脈バルーンポンピングの挿入を試みるが、左大腿動脈が脆弱で下肢血行障害を起こす恐れがあり断念した。

二二時五五分 右大腿動脈より穿刺法によって大動脈バルーンポンピングを挿入し駆動を開始した。

二三時〇〇分 心電図上ST上昇・心室性期外収縮が頻発した。

二三時四〇分 プロタミンを注入

心収縮力の低下は明らかであったが、明らかな梗塞は認められなかった。大動脈バルーンポンピングの使用にもかかわらず、著明な効果はなく、血圧維持が不可能な状態になった。

六月二八日

零時〇〇分 再度全身ヘパリン化(ヘパリン二三ミリリットルを注入する。)

零時〇五分 体外循環再開

より強力な補助循環の必要性から補助循環装置として遠心ポンプを使用することを決定し、京都の武田病院から遠心ポンプを借りることになった。

一時三〇分 左房から脱血管として薄壁チューブを挿入固定

一時四〇分 左大腿動脈からサーンズ5.2ミリメートルの送血管挿入固定

一時五五分 遠心ポンプによる補助循環開始

二時〇〇分 遠心ポンプは使用しながら、人工心肺は停止する。

二時一〇分 体外循環用の送血管、脱血管を抜去する(ただし、遠心ポンプ用のものは残す。)。

二時三〇分 左房ベント部位により左房圧測定用チューブを挿入した。

三時〇〇分 胸腔ドレーンを追加挿入した。

三時二〇分 皮膚を縫合

三時四五分 手術終了

(三) 亡太郎の死亡に至る経過

六月二八日

四時三〇分 体温が上昇せず、温水マット、湯たんぽを使用する。

四時三八分 対光反射認められず、瞳孔散大気味、四肢チアノーゼが認められる。冷感が強い。

五時二〇分 ICUに収容

瞳孔は散大気味で対光反応がわずかに認められる程度

心房細動、心室性期外収縮等の不整脈が頻発し、大動脈バルーンポンピングが同調しないことがときどき見られた。出血が多く、多量の輸血が必要であったが、血圧は一二〇に維持できた。尿量は毎時一〇〇ミリリットル以上あり、血行動態は良好であった。

午後以降 動脈血酸素分圧が低下、尿量も減少する。

一八時〇〇分 無尿、利尿剤に反応せず。血行動態悪化、血圧上昇。

心収縮力増強をはかるためカテコラミン等を増量したが血圧の変動が激しく、管理は困難を極めた。

一八時四八分 心停止。心臓マッサージ開始。

ボスミンを心腔内に投与しマッサージを続けたところ、血圧が一二〇に上昇したのでマッサージを中断した。しかし、すぐに血圧が低下するためマッサージを再開し、その後もカテコラミン投与と心臓マッサージを繰り返した。

六月二九日

七時二六分 死亡

二  亡太郎の死亡原因

前項2(二)で認定した事実によれば、本件手術においては大動脈遮断時間が二九八分に及んでいるところ、① 心臓手術においては、大動脈遮断時間が長時間に及ぶほど心機能の回復が困難となり心停止の危険性が高まるといわれていること(証人原田俊郎、同丙川冬夫、同北村信夫の各証言、被告乙山本人尋問の結果、乙八、一四、一五等)、② 大動脈遮断時間が二四〇分を超える症例は同時間が二四〇分未満の症例に比べて有意に高い死亡率を示す旨の学術報告がされていること(乙八)、③ 本件手術当時の心臓手術の症例報告に照らして、二九八分という大動脈遮断時間はかなり長時間であるといわねばならないこと(乙五ないし九等)、④ 原告が私的に鑑定を依頼した医師である証人北村信夫は、亡太郎死亡の原因としては、大動脈遮断時間が長時間に及んだことが一番考えうる原因であると証言していること、⑤ 被告乙山医師本人も、死因としては、大動脈遮断時間の延長と術中の心筋梗塞の二つが考えられ、術中の心筋梗塞については大動脈遮断時間が延長されたことに原因があるかもしれないと供述していることなどに照らせば、亡太郎が手術近接期心筋梗塞による急性心不全により死亡したのは、本件手術において大動脈遮断時間が長時間に及んだことに原因があると認定するのが相当である。

原告らは、左冠動脈前下行枝の吻合部に狭窄を生じさせて、血流量を手術前よりも減少させたことも、急性心不全を引き起こした原因であると主張する。

この点、指導医の立場で本件手術に立ち会った丙川医師は、「前下行枝の出血が非常に多くて、そこにどんどん追加縫合をかけていったので、血管が変形したのが見えた。」と証言しているものの、明確に血管狭窄が認められたとまでは証言しておらず、むしろ、同医師が、意見書(乙一〇)においては、「追加縫合終了後の心筋保護液注入試験では注入圧及び注入量より考えて閉塞や強い狭窄が発生したとは考えられなかった。」と記載していることからすれば、前下行枝には少なくとも閉塞や強い狭窄はなかったと認められる。前下行枝の吻合部に閉塞や強い狭窄が発生していなかったとすれば、たとえ血管の変形により若干の血管狭窄があったとしても、前記認定のとおり、もともと左冠動脈前下行枝の根元には九九パーセントの狭窄があったのであるから、バイパスを吻合したことによって左冠動脈前下行枝の血流量が手術前より悪くなったとは考えがたい。また、証人北村は、意見書(甲一〇の1、2)や法廷での証言において、左冠動脈前下行枝の吻合部の血流量の減少が死因につながった可能性はあると供述しているものの、丙川医師作成の意見書の「心筋保護液注入試験では注入圧及び注入量より考えて閉塞や強い狭窄が発生したとは考えられなかった」旨の記載を前提にすれば、前下行枝に狭窄はなかったことになるとも証言している。以上より、丙川、北村証言から、冠動脈下行枝の吻合部の血管狭窄によって血流量が減少したことが、死亡の原因であるとまでは認定できず、他にこれを認定するに足りる証拠もない。

被告らは、冠動脈のスパズム(攣縮)が死亡の原因となった可能性がある旨主張するが、前記の認定によれば、前項2(二)で認定した手術終了後の心房細動や心室性期外収縮などの不整脈は、大動脈遮断時間が長時間に及んだことに原因があると考えるのが自然であって、本件を、他に何ら原因がないのにスパズムの発生のみが原因となって心停止を引き起こした症例と認めることはできない。したがって、被告らの右主張は採用できない。

三 被告乙山医師らの過失

1 本件手術の執刀医決定における過失

被告乙山医師の本人尋問の結果によれば、① 被告乙山医師は、本件手術以前には執刀医として冠動脈バイパス術を行った経験はなかったけれども、心臓血管外科の専門医として一六年の経歴を持ち、約五〇例の心臓外科手術を執刀した経験があったこと、② 冠動脈バイパス術については、手術の前立ち、助手としてかなりの数の手術に立ち合った経験があったこと、③ 被告病院に勤務する前に勤務していた小倉記念病院において、冠動脈バイパス術に関する論文を共同執筆していること、④ 亡太郎の冠動脈は、各所に強い狭窄があり、四枝バイパス術の適応があるという意味では脆弱になっていることが予想されたが、粥状動脈硬化が広汎に存在することは、心膜切開後に分かったものであり、一般的な冠動脈バイパス術に比べて吻合にかなり困難を伴うことは必ずしも手術前に予測されるものではなかったこと、⑤ 本件手術には冠動脈バイパス術について十分な経験を有する丙川医師が途中から指導医として立ち会っていたことが認められ、これらの事実からすれば、被告乙山医師が、自己を執刀医として選んだこと自体に過失があるとまではいえない。

2 手術計画の立案・決定における過失

原告らは、被告乙山医師が、四枝バイパスという無理な手術計画を立てたために、本件手術の大動脈遮断時間が長時間に及んだのであって、同医師にはこのような手術計画を立案した点で過失があると主張する。

確かに、冠動脈バイパス術においては、患者の死亡事故を防ぐという観点からは、大動脈遮断時間はできる限り短い方が望ましく、バイパスを吻合する箇所の数を少なくすれば、大動脈遮断時間は短縮できたといえる。しかし、甲二、五ないし九、乙五ないし九、一一ないし一五の文献によれば、冠動脈バイパス術においては、救命がまず優先されるものの、厳密な意味における救命のみが目的とされるものではなく、狭心痛の消失、心臓虚血の再発防止、低い心機能による他臓器への悪影響の回避、合併症の回避等も目的とされるべきものである。したがって、本件手術当時の臨床医学では、かかる観点から、大動脈遮断時間の安全領域の範囲内で、できる限り完全な血行再建を図るのがよいとされており、バイパスの本数、吻合箇所、吻合順序などは、血管狭窄等の病変の箇所及び程度、血管の分布状況、心筋梗塞の大きさ、使用する心筋保護法、術者の力量等を考慮して、術者が、決定すべきものであるとされている。

前項で認定した亡太郎の症状に関する手術前の所見、左冠動脈前下行枝は一般に最も重要な冠動脈と考えられていること、亡太郎においては左冠動脈第一対角枝が前下行枝の本流とほぼ同じ太さで、心筋へ広範囲に分布していることが認められ、左冠動脈第一対角枝の血行再建の必要が通常の場合に比べて大きかったこと(乙一〇)、右冠動脈の副路が発達していて、左冠動脈の前下行枝の領域にまで分布しており、右冠動脈の血行再建の必要性も大きかったこと(原田証言、乙四)、本件手術当時の医学水準においては、四枝バイパスは、冠動脈バイパス術のバイパス本数としては多いとはいえず、手術に要する時間は通常一五〇分程度であること(甲一〇の2)などに照らせば、被告乙山医師が、本件手術に先立って四枝バイパスの手術計画を立てたこと自体は相当な判断であって、この点に過失はないといえる。

また、原告らは、生命の維持にとって最も重要な冠動脈である左冠動脈前下行枝から優先的にバイパスを吻合すべきであったにもかかわらず、右冠動脈、左冠動脈回旋枝を先に吻合する計画を立てたことについて、被告乙山医師には過失があると主張する。

確かに、左冠動脈前下行枝は心臓の左室の広い領域に分布する重要な血管であるが、前記認定のとおり、亡太郎においては、手術前の諸検査によって、左冠動脈前下行枝の支配領域に心筋梗塞がある旨の所見が得られていた上、手術中にも同部位に梗塞巣(阻血による心筋の壊死)が認められ、左冠動脈前下行枝へのバイパス術は、梗塞巣の周辺にある壊死に陥っていない部分に対してのみ有効であって、同血管にバイパスを吻合することによって再建される血行は同血管にバイパス術を施す通常の場合に比べて大きくなかったこと、亡太郎においては、右冠動脈の副路が発達していて、左冠動脈前下行枝の領域にまで分布しており、右冠動脈にバイパスを吻合することで、心臓の左室領域への血行再建がある程度はかれたこと、回旋枝は心臓の裏側に分布する冠動脈であるため、同血管へのバイパス吻合を最後に行うことは、技術上困難が伴うことなどに照らせば、本件手術において前記認定の順序でバイパスの吻合をしたことは、執刀医の判断として必ずしも不相当であったとはいえず、この点についても過失は認められない。

さらに、原告らは、被告乙山医師には、手術前の検討会に指導医である丙川医師の参加を要請して、手術計画等を相談しなかったことについて過失があると主張するが、前記のとおり、被告乙山医師の立案した手術計画自体は、不相当なものといえないから、原告らの右主張は失当である。

3 大動脈遮断時間の安全限界を越えて大動脈遮断時間を延長させた過矢

前記認定事実及び丙川、原田証言、被告乙山の本人尋問の結果等の前掲各証拠によれば、① 本件手術において、右冠動脈へのバイパスの吻合に約三〇分、回旋枝へのバイパスの吻合に約一時間、左冠動脈前下行枝へのバイパスの吻合に約一時間、左冠動脈第一対角枝へのバイパスの吻合に一時間以上の時間がかかったこと、② 亡太郎においては、冠動脈に広汎に粥状動脈硬化性変化があり、また血管壁が脆弱であったため、吻合が難しく、吻合及び吻合部の止血に手間取ったこと、③ 特に、左冠動脈前下行枝については、一旦吻合が終わってからも、吻合部から出血があり、止血のために何度も追加縫合を行ったこと、⑤ 左冠動脈前下行枝の吻合が一応終わった時点で、被告乙山医師は、丙川医師に、さらに第一対角枝にもバイパスの吻合を行うべきかどうか指示をあおいだところ、丙川医師が、第一対角枝にも吻合を行うよう指示したこと、④ 冠動脈末梢部へのバイパスの吻合かすべて終わったとして、一八時ころ、一旦亡太郎の体温を上昇させたが、回旋枝の吻合部から出血があったため、その時点で体温を上昇させるのを止め(当時の体温は約二五度。以降大動脈遮断解除まで、この温度を維持)、一八時三〇分ころに回旋枝の吻合部に三針の追加縫合を行ったこと、⑤ 左冠動脈第一対角枝へのバイパスの吻合にとりかかってから約一時間後に、一旦亡太郎の体温を上昇させているが、その後回旋枝の吻合部に三針の追加縫合を行うなどし、結局、大動脈遮断が解除されたのは、体温を上昇させ始めた時点の一時間五分後であること、⑥ 本件手術における心臓保護液は、被告乙山医師の前任地である社会保険小倉記念病院心臓血管外科において使用されているものが使用されたこと、⑦ 本件手術中、執刀医である被告乙山医師はもとより、指導医である丙川医師、助手として立ち会っていた原田医師の誰一人として、本件手術の時間経過を全く把握しておらず、亡太郎の大動脈遮断時間が約五時間に及んでいたことは、手術後、手術記録を見るまで知らなかったこと、以上の事実が認められる。

右認定事実によれば、バイパスの吻合部一箇所あたりに要する時間が長時間に及んだ第一の原因は、亡太郎の血管の硬化が著しくかつ血管壁が脆弱であったことにあると認めることができ、それぞれの吻合の手技に時間がかかったこと自体はやむを得なかったと考えられる。

しかしならが、① 開胸時には、亡太郎の冠動脈に広汎に粥状動脈硬化性変化があることが分かっていた上、回旋枝に二本目にバイパスを吻合するのに約一時間、左冠動脈前下行枝に三本目のバイパスを吻合するのにも約一時間を要していることからすれば、最後に行うことになっていた左冠動脈第一対角枝へのバイパス吻合にも少なくとも一時間程度の時間がかかることは当然予測できたこと、② 左冠動脈第一対角枝へのバイパスの吻合に取りかかった時点では、大動脈遮断開始後約三時間が経過していたこと、③ 第一対角枝の吻合が終了した後も心筋保護液注入試験を行ったり、場合によっては追加縫合をする必要にせまられることがあり、吻合終了後直ちに大動脈遮断が解除できるとは限らないこと、④ 本件手術当時、大動脈遮断時間が四時間を超える冠動脈バイパス術の成功例の症例報告は少なかったこと(証拠としては乙八、九のみ)、⑤ 本件手術と同じ心筋保護液が使用されている社会保険小倉記念病院心臓血管外科においては、大動脈遮断時間が四九〇分にも及ぶ心臓手術の成功例も報告されているが(乙八)、乙山医師も共同執筆者として名を連ねているこの乙八号証の論文においては、「手術死亡率等と大動脈遮断時間との関連を調べたところ、二四〇分以上の症例は二四〇分未満のいずれの階級の症例に比べても、有意に高値を示した。」という記載があり、小倉記念病院で使用している心筋保護液を用いても大動脈遮断時間が四時間を超える冠動脈バイパス術は安全なものとはいいがたかったこと、⑥ 亡太郎の心臓には、心筋梗塞の既往症が認められた上、冠動脈の病変の程度も高かったこと、以上からすれば、本件手術において、左冠動脈第一対角枝のバイパス吻合に取りかかることは、その時点における亡太郎の病状及び大動脈遮断時間の兼ね合いから見て、かなり危険なものであったといわざるをえない。また、手術の時間経過を把握していれば、被告乙山医師も当然にこの危険性を当然認識しえたものと考えられる。

一方、① 左冠動脈前下行枝の吻合部に手術前よりも血流量を減少させるような著しい血管狭窄が生じていたとは認められないこと、② 亡太郎の手術前の病状に照らして、本件手術は救命のためになされた緊急手術であったとはいえず、三枝バイパスによっても手術前と比べればかなりの血行再建がはかれ、それなりに手術の目的は果たせたと考えられること、③ 北村医師が、自分が執刀医であれば、第一対角枝のバイパス術にはとりかからずに手術を終了させていたと証言していることなどに照らせば、本件手術において、第一対角枝へのバイパス吻合は、亡太郎の救命の観点からは不可欠ではなかったといわざるをえない。

冠動脈バイパス術においては、単純な意味での救命のみが目的ではなく、狭心痛等の病状改善や将来における心臓病の再発防止等も目的とされるべきものであるが、手術自体による患者の死亡をできるだけ回避すべきこと、その意味で救命が最優先されることはいうまでもない。冠動脈バイパス術においては、大動脈遮断時間が長時間に及べば、患者が死亡に至る危険性が高くなることから、執刀医は、大動脈遮断時間の経過に注意を払うべきであり、これが長時間に及ぶ可能性がある場合には、そのことによる危険性と計画どおりにバイパスを吻合しないことによる危険性とを慎重に比較考慮し、場合によっては、手術を中断する等、適切な措置を採るべき注意義務があるというべきである。

ところが、本件において、被告乙山医師は、大動脈遮断時間に注意を払うことを怠り、三枝バイパスで手術を終了していれば患者の死亡を回避できたと考えられるにもかかわらず、当初の計画を漫然と進めて吻合手術を続けた結果、大動脈遮断が約五時間の長時間に及んで患者が死亡するに至ったのであるから、被告乙山医師には、執刀医として右注意義務に違反する過失があったと認めるのが相当である。

4 前下行枝の吻合に際し、血管に狭窄を生じさせた過失

前下行枝の吻合部に手術前よりも血流量を減少させるような致命的な血管狭窄が発生したと認められないことは、前記のとおりであるから、このような狭窄が発生したことを前提とする原告らの主張は採用できない。

5 丙川医師が前下行枝の吻合をやり直すべきであったのに、これを怠った過失

前項と同様の理由から、原告らの主張は採用できない。

四  被告らの責任

1  被告乙山医師は、前記三3のとおり、過失によって、亡太郎を死亡させるに至ったのであるから、原告らに対し、民法七〇九条により、その過失によって与えた損害を賠償する責任がある。

2  被告日本赤十字社は、被告乙山医師の使用者であり、前項の同医師の不法行為は、被告日本赤十字社が設置する被告病院の業務に関して行われたものであるから、民法七一五条により、被告乙山医師の前項の不法行為によって与えた損害を賠償する責任がある。

また、被告日本赤十字社は、亡太郎との契約に基づき、亡太郎の症状を正しく診断し、これに対する適切な治療行為を行う義務を負うべきところ、その雇用する被告乙山医師がその義務に違反し、亡太郎を死亡させるに至ったのであるから、民法四一五条により、その義務違反によって生じた損害を賠償する責任がある。

五  原告らに生じた損害の額

1  慰謝料

本件手術実施の経緯、亡太郎の手術前の病状、死亡時の年齢、生活状況等、本件の一切の事情を考慮すると、亡太郎の受けた精神的損害に対する慰謝料としては、一五〇〇万円、原告らの受けた精神的損害に対する慰謝料としては、原告春子につき二〇〇万円、その余の原告らそれぞれにつき一〇〇万円をもって相当と認める。

亡太郎の受けた精神的損害に対する慰謝料一五〇〇万円について、原告春子は、亡太郎の妻であるから、同人の死亡によりこの二分の一を相続し、原告一郎、同二郎、三郎は、いずれも亡太郎の子であるから、同人の死亡によりこの六分の一ずつ相続したものと認める。

2  逸失利益

(一) 原告らは、亡太郎が本件事故により死亡しなければ、年間三七五万〇四〇〇円の収入を得ることができたと主張するが、亡太郎は、死亡当時六〇歳八か月で、前記一1(一)認定のとおり本件手術の前年に定年退職して以来無職で、その後再就職の予定があったとは認められないのであるから、就労による収入があったと認めることはできず、原告らの右主張は採用できない。

よって、亡太郎につき就労が可能であったことを前提とする逸失利益は認められない。

(二) 弁論の全趣旨によれば、亡太郎は死亡当時老齢厚生年金として月額二一万八二二五円を、原告春子は同じく月額一〇万五三二五円を支給されていたところ、亡太郎の死亡によって原告春子は遺族年金として月額一四万九六五八円を受給するようになったものの、併給の調整により同原告固有の老齢厚生年金の支給は受けられなくなったことが認められる。

老齢厚生年金を受給していた者が不法行為によって死亡した場合には、相続人は、加害者に対し、年金受給者が生存していればその平均余命期間に受給することができたであろう年金の現在額を同人の損害として、賠償を求めることができると解することができるから、亡太郎が本件手術における過失によって死亡し、老齢厚生年金を受給できなくなったことについて、同人の相続人である原告らは、亡太郎がその平均余命期間に受給することができたであろう老齢厚生年金の現在額の賠償を求めることができる。

そこで、亡太郎が死亡しなければ、その平均余命期間に受給することができたであろう老齢厚生年金の現在額を算定するに、亡太郎の平成二年簡易生命表による平均余命は約一九年であるから、同人の生活費割合を四割とし、新ホフマン方式により中間利息を控除して、次のとおり二〇六〇万八一二一円となる。

218,225円×12月×0.6×13.1160=20,608,121円

原告春子は、亡太郎の妻であるから、同人の死亡によりこの二分の一を相続し、原告一郎、同二郎、三郎は、いずれも亡太郎の子であるから、同人の死亡によりこの六分の一ずつ相続したものと認められる。

ところで、被害者が不法行為によって死亡し、その損害賠償請求権を取得した相続人が不法行為と同一の原因によって利益を受けた場合、その利益を被害者の損害との間に同質性がある限り、公平の見地からは、その利益額を損害賠償請求権として相続した債権額から控除することによって損益相殺的な調整を図る必要があるところ、老齢厚生年金及び遺族年金は、いずれも、本人及びその支給開始時にその者が直接扶養する者の適当な生活の維持を図ることを目的とする年金制度に基づく給付であって、同質性を有する。原告春子は亡太郎の死亡を原因として遺族年金を受給できるようになったことで、それまで固有に受けていた老齢厚生年金に比べ、月額四万四三三三円分、年金受給額が増加するという利益を受けたのであるから、遺族年金の支給を受けることが確定している限度で、右増加額を、亡太郎の年金受給権喪失による逸失利益から控除すべきである(参照 最高裁判所昭和六三年(オ)第一七四九号平成五年三月二四日大法廷判決・民集四七巻四号三〇三九頁)。そうすると、亡太郎の逸失利益のうち原告春子の相続分一〇三〇万四〇六〇円から、亡太郎が死亡した平成二年九月から当審口頭弁論終結の日である平成七年八月二八日までの六〇か月間に受給した原告春子の年金受給増加額合計二六五万九九八〇円を控除した残額七六四万四〇八〇円が、原告春子の請求しうる亡太郎の逸失利益となる。

なお、被告は、亡太郎のように冠動脈の三枝に高度の狭窄性病変がある患者の、冠動脈バイパス術後の生存率は、統計上、手術四年後で五〇パーセントであるといわれているから、亡太郎のような重症の心臓疾患を有する患者については、一般人と同様の平均余命を有することを前提に逸失利益を算定すべきではないと主張する。しかし、被告が答弁書に添付する冠動脈バイパス術後の生存率を示す統計表は、その出典が明らかでない上、統計によって得られた数値をもって、直ちに亡太郎の余命年数を限定することはできない。

3  葬儀費用

葬儀費用としては、一二〇万円を本件不法行為及び債務不履行と因果関係のある損害と認めるのが相当である。

弁論の全趣旨から、原告春子は、葬儀費用の二分の一を、原告一郎、同二郎、三郎は、これの六分の一ずつを負担したものと認める。

4  弁護士費用

原告が本件訴訟の代理人を委任したことは当裁判所に顕著な事実であり、弁護士費用としては、四五〇万円を本件不法行為及び債務不履行と因果関係のある損害と認めるのが相当である。

弁論の全趣旨から、原告春子は、弁護士費用の二分の一を、原告一郎、同二郎、三郎は、これらの六分の一ずつを負担したものと認める。

四  以上の事実によれば、原告らの請求は、被告乙山医師、被告日本赤十字社に対し、各自、原告春子に対し、金一九九九万四〇八〇円、同一郎、同二郎、三郎に対し、それぞれ七八八万四六八六円及びこれらに対する不法行為の後である平成二年六月二九日から支払い済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官鏑木重明 裁判官森木田邦裕 裁判官山下美和子)

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